東日本大震災での原発事故をきっかけに反原発運動に参加するもその運動に疑問を持ち、運動から離れた。 そのときの体験をもとに、活動や情報発信を行っている千葉麗子。
 日本のために何が出来るのか模索した結果、現在辿りついた “愛国” とは何なのか?
 子供のために、将来のために日本に今必要な事を訴える!

私のお守り教育勅語!
 私はカバンの中に教育勅語の冊子を入れて、いつでも読めるようにしています。
 深緑色の折り畳み式の冊子で、明治神宮で購入しました。 私が持ち歩くようになってから、私の周りにいる人も 「いいね!」 と言うようになって、後に続くようになりました。
 私にとっては、今やお守りみたいな存在です。



 私が教育勅語を意識するようになったのは平成27年の夏頃でした。
 それ以前はというと、歴史の授業でちょっと出てきたから言葉として知っていたくらいにすぎなかったのですが、パヨクとさよならしてから、教育勅語を使った街宣演説を聞いた時に、すとん! と腑に落ちることがあったのです。
 これは、一度ちゃんと読んでみなくっちゃ! と思いました。
 教育勅語は、それ自体が軍国主義の象徴みたいに言われていて、凄く危険思想で、怖いと言われてしまっているのだそうです。
 …… と言われても、そうなんですか? としか言いようがないのですが。
 実は私は、パヨクにさよならする前もそうですし、さよならした後に読んだ時も、全然怖いなんて思ったことはありません。
 「こんなものがあったから、特攻したんだ!」 みたいに言われて、全ての元凶にされてしまっていて、ゼロかマイナスの評価しかないということも、勉強してみて初めて知りました。
 そういえば、パヨクといた時に、教育勅語は怖いなんて話を聞いたかなと思い出してみようとしたのですが、思い当たりませんでした。 警戒されていないのです。 つまり、保守系の人達が強調するほどメジャーな存在になっていないのかな、という感じです。



  

教育勅語、原文、現代語訳!!
 2006年12月、第一次安倍内閣の時に教育基本法が改正されました。
 教育の目標に 「愛国心」 や 「公共の精神」 という規範意識を盛り込んだことで、教育勅語に注目が集まりました。
 当時の記事をネットで検索してみると 「愛国心や規範意識は国が強制するものではない」 とか 「戦前のそういう洗脳で特攻が行われたのだ」 という、怖いことだと言っている意見が目につきます。 挙句の果てには、安倍さんをヒトラーのようにコラージュした画像も出てきました。
 では、その教育勅語を見てみましょう。
教育きょういく勅語ちょくご

ちんおもニ 皇祖こうそ皇宗こうそう くにはじムルコト宏遠こうえんニ とくツルコト深厚しんこうナリ
臣民しんみん ちゅうニ こうニ 億兆おくちょうこころいつニシテ セルハ 國體こくたい精華せいかニシテ 教育きょういく淵源えんげんまたじつここそん
なんじ臣民しんみん 父母ふぼこうニ 兄弟けいていゆうニ 夫婦ふうふあいシ 朋友ほうゆうあいしん 恭儉きょうけんおのレヲシ 博愛はくあいしゅうおよシ がくおさメ ぎょうなら もっ智能ちのう啓發けいはつシ 德噐とくき成就じょうじゅシ すすん公益こうえきひろメ 世務せいむひらキ つね國憲こくけんおもん 國法こくほうしたが 一旦いったん緩急かんきゅうアレ 義勇ぎゆうこうほう もっ天壤てんじょう無窮むきゅう皇運こううん扶翼ふよく
かくごとキハ ひとちん忠良ちゅうりょう臣民しんみんタルノミナラ またもっなんじ祖先そせん遺風いふう顯彰けんしょうスルニラン
みちハ じつ皇祖こうそ皇宗こうそう遺訓いくんニシテ 子孫しそん臣民しんみんとも遵守じゅんしゅところ これ古今ここんつうあやま これ中外ちゅうがいほどこシテもと ちんなんじ臣民しんみんともニ 拳拳けんけん服膺ふくようシテ みなそのとくいつニセンコトヲこいねが

明治二十三年十月三十日

御名ぎょめい 御璽ぎょじ

 ちょっとこれだと大変ですよね。 実は、私もいつもは現代語訳のほうを読んでいます。
 現代語訳で、内容を確かめてみましょう。

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
 そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸きょう襟きんを開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
 そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
~国民道徳協会訳文による~

 いかがですか?
 文章としては、当時の山縣有朋やまがたありとも首相と芳川顕正よしかわあきまさ文相に、明治天皇が読んで聞かせたという形で書かれているのだそうです。

 最初に読んでいただいた原文の最後に、天皇陛下、御名御璽とあって、実際の原本には天皇陛下の署名がありハンコが押してあります。 書式としては、法律なのかなと思うような形になっているのですが、法律にはなっていません。
 法律か、法律でないかの違いは大きいです。 法律になっていたら、違反したら裁判で裁かれなくてはならなくなります。
 しかし、実際に現代語訳を読んでいただくとわかるように、明治天皇が身をもって、大事な道徳を 「私もやります」 と言っているという内容になっているのです。
 しかも、普通のことが書いてあるので、文句のつけようがないはずです。
 それでも、パヨクみたいな考え方をする人は、それを 「天皇が命令しているからけしからん」 というわけです。
 この文面は命令になっていますでしょうか? ちゃんと読めば、けしからん! と言っているほうがいい加減なことを言っているのだな、いちゃもんをつけているだけなんだなとわかるはずです。




私のお守り教育勅語!
 教育勅語の文章を作ったのは、明治の元勲の一人、井上毅いのうえこわしという人です。
 大日本帝国憲法を作った人でもあるのですが、教育勅語を作る時、こういういちゃもんを言われないために、大変な苦労をしました。
 『さよならパヨク』 ( 青林堂、2016年 )で 「皇国再生のためのお願い」 という形で 「教育勅語を復活して下さい」 と書きました。
 それから、自分で英語訳にもチャレンジしてみました。
 英訳は、現地の仲間にも手伝ってもらって、3ヵ月くらいかかりました。 フェイスブックで繋がった海外のファンの子達に見てもらいたいと思ったのです。
 時間もかかりましたが、やってみて改めて思ったのは、普段使っている日本語の美しさと奥深さです。

 私が普段しゃべっている日本語は、明治の頃に比べたら、全然奥深さなんてないよなぁと思います。 それでも、日本語自体が深いので、それを英語にしてみた時に 「言葉が単純なものになってしまった」 感というのがありました。 通じればいいでしょう? というようなところがあるなと。
 しかも、この短い中に全部凝縮されているような形で、簡潔な美しさがあるのです。

 敗戦後、アメリカからやってきて日本を占領統治下においたGHQは、この教育勅語と修身、国史と地理を教育現場から追い出し、タブー視させる政策を徹底して行ないました。
 当時の文部大臣は教育勅語をマッカーサーのところに持っていって 「これを読んで下さい。 こんなまともなことしか書いていないでしょう。 危険な思想じゃないんです。 日本人を立派な国民に育てるためのものなんで、禁止しないで下さい」
 そう言ったところ、マッカーサーが 「じゃあ、禁止しよう」 と答えたのだそうです。
 つまり、GHQはまともな日本人を育てさせたくなかったから、私達から教育勅語や修身を取り上げたのです。 教育勅語や修身を 「怖い」 と思う、タブー視する考え方というのは、GHQの置き土産のようなものなのです。



  
   

逆にしたらよくわかる教育勅語!
 パヨクとさよならしてから、人前でお話しする時に、私が教育勅語を盛り込んでお話しすることが多いテーマは 「親への感謝」 かもしれません。 きちんと回数を数えているわけではないのですけれども。
 私は両親からDVを受けていたというトラウマがありました。 それでも 「親への感謝」 を話そうと思うのは、自分に息子ができたというのも大きいですし、実の親以上に、16歳で上京してからずっと面倒を見てくれている元マネージャーや関係者ら、たくさんの人に育ててもらったという思いがあるのです。

 初めて教育勅語を知って、きちんと読んでから、私の心に一番湧き上がってきた思いというのは、血の繋がりがなくても、私を育ててくれた、私にとっての “家族” に対する感謝でした。
 それが行き着く先に 「国」 があるのではないか、と私は考えるようになりました。 自分を愛せない人には、大事な人を守ることはできないのです。 私はそれを身をもって経験したという自負があります。
 では、改めて教育勅語が本当に 「怖い」 のかどうか、一つずつチェックしてみたいと思います。
 そこで、真面目にやっても面白くないでしょう? と、倉山先生からとっても面白い検証方法を教えてもらいました。
 「逆・教育勅語」 です!
一、親に孝養をつくしてはいけません。家庭内暴力をどんどんしましょう。
二、兄弟・姉妹は仲良くしてはいけません。兄弟・姉妹は他人の始まりです。
三、夫婦は仲良くしてはいけません。じゃんじゃん浮気しましょう。
四、友達を信じて付き合ってはいけません。人を見たら泥棒と思いましょう。
五、自分の言動を慎んではいけません。噓でも何でも言った者勝ちです。
六、広く全ての人に愛の手をさしのべてはいけません。わが身が第一です。
七、職業を身につけてはなりません。いざとなれば生活保護があります。
八、知識を養い才能を伸ばしてはいけません。大事なのはゆとりです。
九、人格の向上に努めてはいけません。何をしても「個性」と言えば許されます。
十、社会のためになる仕事に励んではいけません。自分さえ良ければ良いのです。
十一、法律や規則を守り社会の秩序に従ってはいけません。自由気ままが一番です。
十二、勇気をもって国のために真心を尽くしてはいけません。国家は打倒するものです。
 どうしてこんなことを思いついたんですか? と伺ったら
 教育勅語が悪いんだったら、全部逆にしましょう。 これが良いんですか?
 という発想なのだそうです。 とってもユニークなアイデアです。 でも、核心をついていますよね。 私はこれを読んで笑った後、思わず
  パヨクそのものじゃん!
 と、口にしてしまいました。
 私がパヨクとさよならしたのも、当然のことだったと教えてもらったようなものです。
 倉山先生は、逆・教育勅語で講演をされると、最初は笑いが起こるんですよとおっしゃいました。 特に三番の 「じゃんじゃん浮気しましょう」 は、私も本当に声を上げて笑ってしまったし、倉山先生が話をする時の定番なのだそうです。
 ところが、先に進むにしたがって、だんだんと笑いが止まって、凍りついていくそうなのです。 そう言われて、はっとしました。
  これって今じゃん! 今の日本そのものじゃん!
 普通に考えて、これはやばい状態だと思わないほうがおかしいと思うのですが、その感性がパヨクにあるとも思えません。 逆・教育勅語がパヨクそのもので、今の日本そのものなら、パヨクはこれを読んでも何が悪いのか、どこが悪いのかなんてわかるはずがないのですから、もう説得不能です。
 どうして、私が教育勅語を使った街宣演説で腑に落ちたと感じたかが、ハッキリと見えました。
 こういう世界になっているから、母である私が子どもを守らなきゃダメだ!  そう思ったのです。
 今ならまだ間に合います! 「ママは愛国」 にならなければならないのです。




道徳の時間を覚えていますか!
 道徳の時間って覚えていますか?
 教育現場に詳しい人から見ると、もう私の世代( 昭和50年代の生まれ )が義務教育だった頃から、道徳教育は実質崩壊しているような状態なのだそうです。
 中学校までの義務教育では、教科書もあって、学習指導要領には、道徳の時間は年間35時間・週 1時間設けなければならないことになっていますが、どこまで実践されているかは、学校あるいは先生によって、全く違います。

 思い出してみると、道徳のテストなんてありません。 図画、工作以上に自由裁量にされているので、やったことにすればいいみたいな扱いということを感じた時間でした。 教科書ももらってそのまま、表紙をめくった記憶もあるかどうかです。 ロッカーに入れたまま、ぐじゃぐじゃになって、学年末にロッカーを空ける段になって、そういえばあったね、みたいな扱いでした。
 先生も何かムービーを見せておくとか、勝手に読書しておいてというふうに使っていたのを私も覚えています。
 学生だった時は、当然ラッキー! と思ったのですが、今にしてみれば、まず道徳の時間で道徳が成立していないじゃない! と感じます。

 大人になって、社会の中で生きていくようになると、必然的に常識的に物事をとらえるとか、判断のもとになる価値観だとか、仲間との協調性が求められるようになって、そこで生き方や価値観の必要性が出てくることが多いですよね。
 道徳って言われても子どもの時はピンとこないし、わからなくても仕方がないのかなとは思います。 でも、だから、やらなくていいとは思いません。
 学ぶきっかけ、考えるきっかけというのは、必要だと思います。
 気がついたのは早い時期ではなかったけれど、教育勅語をここまでハッキリと意識していない時でも、道徳教育を学校に期待できないなら、親が教えるしかないと思っていました。 息子に対しての私の方針は 「自分の背中を見せて育てる」 ではないか、と思ってやってきていました。

 百点満点をつけられるような生き方をしてきているか? と言われたら、残念ながら、それは言えないけれど、筋を通すということは常に心掛けてきました。 その点において、私の心には一点の曇りもありません。
 でも、親が言うことを子どもが全部聞くかというと、そうでもないわけで、私自身、この先生で良かったと思う授業や、影響される言葉もあったので、息子にも、そういう良い人との出逢いがあるといいなと思っています。

 私の話ではないのですが、ある方が受けた道徳の授業で 「恥をかかせない」 ということをどう思いますか? というテーマの授業があったそうです。
 ヨーロッパのレストランで、手を洗うフィンガーボールの習慣を知らなかったお客様がフィンガーボールの水を飲み始めてしまった。 すると、それをホスト側が 「それは違うんですよ。 手を洗うものですよ」 と言わず、一緒に、同じように飲んだという話です。
 相手の無知を指摘するのではなく 「思いやり」 で接するという話です。 教えてくださった方によると 「ああ、なかなか粋なことをするな、外国人も」 という意外さがあって、大人になった今も記憶に残っているのだそうです。
 当然、この応対には正解があるわけではありません。 後々、その人みたいな態度をとってくれる人ばかりとは限らないのだから、やっぱり真実を教えてあげたほうがよかったのではないか、という意見が出てもよいわけです。



  

江戸や明治の教育が上手くいったわけ
 明治の教育もいい加減、江戸はもっといい加減だったそうなのです。 江戸時代は食い詰めた浪人が寺子屋とかをやってたわけですし、明治時代もバイト代わりに小学校の代用教員をやっていたところがあったので、そんなに大したことをやっていないのだそうです。
 それでも、江戸や明治の初等教育が上手くいったのは、教えることの根本がおかしくなかったからではないでしょうか。
 言ってしまえば、教育勅語は建前です。 言われて全部できる人がどれだけいたのか。 でも、建前が建前として成立していた。 これが昔と今の違いではないでしょうか。

 今は 「悪いことは悪い」 ということを教育するのがとても難しくなっています。 モンスターペアレントという言い方をしますが、一時期の行き過ぎが逆に跳ね返って、要らないところに気を遣い過ぎるようになってしまっているからです。
 例えば、体罰がそうですね。
 私が中学生の時、田んぼで干上がって苦しそうにしていたオタマジャクシを助けていて遅刻したことがあったのですが、教室にも入れてもらえず廊下に正座をさせられたことがありました。 今では正座をさせること自体が体罰になって、先生の判断が正しくても、正座をさせたことで先生が咎めを受けてしまいます。
 先生が叱るべき時に叱れないと何が起こるかというと、学級崩壊です。

 息子は学校の必修科目として柔道を選んでいるので、しょっちゅう柔道着を洗っていますが、日本の武道である剣道、柔道、合気道なども、義務感でそれっぽいことをやるだけでは意味がありません。
 手加減をする、ということがあります。
 強い人ほど自分の強さをわかっているから、冷静を保とうとするものです。 やむを得ず手を出さなければならなくなった時に、どこまでならOKかを知っていないと、相手を怪我させてかえって問題をこじらせることもあります。
  「何があっても、男は女を殴っちゃダメ!」
  「小さい者、自分より弱い者に手を出してはいけない」
 こういうことは口で言うより、身体でわからせるほうがいいこともあるのです。
 手を出す側だけではなくて、出される側にとってもそうなのです。
 武力( 腕力 )を使わないということが、実際にはどういうことなのか。 それがわかっていたら、やりたい放題、言いたい放題をするのではなくて、相手の我慢を想像して、折り合えるところ、着地点をわかり合えるはずなのです。




日本人が負け続けないために言いたいこと!
 倉山満先生から、以下についてどう思いますか? と尋ねられました。
  否定したい価値観=大日本帝国、帝国憲法、教育勅語、高度経済成長
  肯定したい価値観=日本国憲法、平和、人権、民主主義、環境保護
 皆さんはいかがですか?
 私の答えは 「肯定したい価値観」 がパヨク。 「否定したい価値観」 が純正日本、愛国心。
 ちなみにパヨクというのは、本来、反体制側です。 なのに、こういう概念を通してみてみると、パヨクの方が体制側になっていることがわかります。
 ご存じの方もあるかもしれませんが、今の日本国憲法の前にできた大日本帝国憲法のことを 「帝国憲法」 と題して本を書いたのは、倉山先生が最初なのだそうです。
 超がつくほどの保守系の出版社ですら 「帝国憲法」 というタイトルにすると、怖いと思われて売れないと困るという理由で 「明治憲法」 になっている。 問答無用で、悪だと決めつけておかないといけないような風潮が続いていた …… 今も、ところによっては、それが当たり前として続いているのかもしれません。

 皆さんは、帝国と聞くと、どんなイメージでしょうか。 私は特別こうというのはないのですが、言われてみてなるほどと思いました。
 例えば 『スターウォーズ』 のダースベイダーのいる帝国軍。 『宇宙戦艦ヤマト』 でも、圧倒的な軍事力を持っている最強の敵として白色彗星帝国が登場します。
 要するに、帝国=ダース・ベイダーみたいなノリで決めつけているだけで、あまり深く考えられているわけではないけれど、とにかく帝国は悪。 大日本帝国はもちろん悪。 戦前の日本は全部、悪。
 そうやって70年もの間、負け続けてきてしまったのが、今の日本だったのです。

 戦前の明治、大正、昭和初期の人は帝国って、普通に言っていたんです。
 本来の帝国というのは、我が国という意味なんです。 強い国とか、立派な国という意味もある。 大日本帝国と言ったら、凄い一等国になったみたいな気分。 明治の人がずっとそれで、日清戦争、日露戦争を勝ってきたので、それを否定したいという勢力がいるのです。

 私は、否定したい勢力というのは、GHQ、マッカーサーだと思っていました。 でも、この倉山先生の解説を聞くとマッカーサーだけというよりも、マッカーサーすら、そこまでやれとは言っていないのに、マッカーサー以上のことをやった日本人がいて、今に至っているというのです。
 優秀な日本人がいたら、その上に立てないと思っている日本人もいる。 だから、自分の上に立てないように幼いうちに愚民化しておこうと考える日本人にとって、敗戦とマッカーサーのような占領軍の政策というのはチャンスだったということなのです。

 前にも書きましたが、マッカーサーは教育勅語を良いものと知って封印しました。 正しいものだからこそ、否定されなければならなかったのです。
 日本人が自分達は強くて立派なんだと、自信を持たれては困る人達がいる。 そういう人達と戦って、私達は本来の日本を取り戻していかなければならないのです。
 大学に行くと、中学や高校の先生の資格をもらうための教職課程があります。 実は、そこでも 「教育勅語」 の否定が徹底的に行われているそうなのです。 教育勅語は 「悪の教え」 なので、当然 「大日本帝国」 は全部悪だから、そういう悪を否定することから入りなさいとやられてしまっている。
 これでは、学校教育で教育勅語を! といっても簡単ではありません。 自分でやらなければ、親が自分の子どもを守らないとダメなんです。